偏依円の三性

i. <三性>は、<依多起性><遍計所執性><円成実性>のことをいう。
ii. <偏依円の三性>は、<三性>の頭文字をとって名づけられており、唯識教義の重要なひとつである。
iii. <依多起性〔えたきしょう〕>とは
1) 「他に依って起こる性」という意味である。
2) 存在の面から捉えると、私たちは様々な諸条件によって形成されており、空しく、はかないものであるということ。
「諸法無我」…私たちが健康であるのも、私が私であるのも、様々な条件の相互のかかわりのうえにあるに過ぎない。
3) 認識の面から捉えると、私たちは自分の言葉や観念イメージ等を投影して対象を見るということ。条件の変化によって変わる。(例:幼児が書いた父母の似顔絵は、鼻の穴が強調されている。これは、いつも親を下から見上げているからである。)
4) <名言>の持つ役割
(a) 頭の中にある観念が認識成立の重要な要因になっている。その観念を<名言〔みょうごん〕>という。
(b) <名言>も、主観の投影と同じである。
(c) 言葉(名言)には、認識が制約され固定化され、思考、思索も拘束するといマイナス面もある。
(d) <名言>が先行すると、言葉が独立性を帯びて、柔軟で自由な認識が抑えられてしまう。
(e) 世界中の戦争で必ず、「正義の戦い」と主張し、その名の下に勝敗を裁いてきた。これこそ<名言>の恐ろしさである。
iv. <遍計所執性〔へんげしょしゅうしょう〕>とは
1) 「遍〔あまね〕き計〔はから〕いに執着される性〔もの〕」という意味である。
2) 感覚の対象も、思考の対象も、無条件に信じていること。
3) いろいろな条件の組み合わせである存在や認識の実態を、固定化し実体化する働きのこと。
4) 対象を<法>で表わし、<法>を無条件に是認することを<法執〔ほっしゅう〕>という。(相分を実在と信じてしまうこと)
5) 自分で作り上げたもの(相分)に拘束されてしまうことを、<相縛>という。
6) 自分を中心とした計らいが、私たちの思考や認識に浸透している<末那識>が働くから、<遍計所執性>が出現する。
7) <遍計所執性>は、自己自身の実態の省察を困難にする。
8) <遍計所執性>は、私たちが勝手に描いた虚像の世界であり、それを<体性都無〔たいしょうとむ〕とか<情有理無〔じょううりむ〕とかいう。
v. <円成実性〔えんじょうじっしょう〕とは
1) 「円」は周遍の義といわれ、普遍性を表わし、「成」は成就の義で、常住を表わし、「実」はその真実性を表わす。
2) 普遍的で永遠に真実なものという意味。<真如><無為法>
3) <遍計所執性>が迷いの人間の実態ならば、<円成実性>は悟りの自己である。
vi. <三性>相互の関係
1) <依多起性>の示す心理は、どこにも固定的絶対的な物はないというものだ。しかし人間は、その存在や認識の空無性に耐えられないので、意識の中に作り上げられた物に依存しようとするのである。
2) <遍計所執性>は、真実の信念が持つ強烈な頑固さと柔軟な精神さえも、停滞化し、凝固化し、固定化してしまう。
3) <依多起性>と<遍計所執性>は、共に空無である。<円成実性>は、その存在と認識の空無性の真理である。
4) <三性>の相互の関係は、一体(不離・非異)でもなく別体(不即・非一)でもない。(=不即不離・非異非一)
5) 物事の断定は、その断定する人間の判断力に依存しており、その人の主観である。
6) 「智慧」の「智」は決断、「慧」は簡択(えらびわける)ことである。
7) 仏教によっては、自己が本来的に仏であることを強調するあまり、自分の相対有限性を忘失してしまうものがあるが、人間はあくまで人間であり超人ではない。
8) 「<遍計所執性>=<依多起性>」の自分と「<円成実性>=<依多起性>」の自分は全く異質の自分である。
9) 「眼横鼻直〔がんのうびちょく〕」=道元禅師が中国での四年間の修行で得たこと…眼は横に、鼻は縦にというありのままの自分が、ありのままに分かったことを表した言葉。
10) 自分の都合の良いように合わせて見たものが<遍計所執性>の自己であり、その真相に気がつくのが<円成実性>の自己である。
11) 「<遍計所執性>=<依多起性>」から「<円成実性>=<依多起性>」の自己になったとき、眼横鼻直の真理の分かる真実の自己になる。
12) 今ここに生きている現実にこそ、人生の奥義がある。
13) 虚妄なる分別(遍計所執性)の中に空性(円成実性)があり、空性の中に虚妄なる分別がある。『中辺分別論』より
14) 眼横鼻直のありのままの自己の中に、「仏法」=真理がある。
15) <円成実性>=永遠の真理を証見する(信じる、理解する、自覚する)ことで初めて<依多起性>が見えてくる。
16) 自分を反省し、自分への自覚を深めるという道でしか、自分を超える方法はない。
17) 仏を呼ぶ凡夫は、すでに仏に出会っている。=行仏性

四分の教え

a. <四分〔しぶん〕>とは、
i. <識>の四つの側面である。<心王>と、実の三十二の<心所>のすべてに<四分>がある。
ii. <相分〔そうぶん〕><見分〔けんぶん〕><自証分〔じしょうぶん〕><証自証分〔しょうじしょうぶん〕>のことである。
1) <相分>とは、認識の対象のことである。(客体)
2) <見分>とは、<相分>を直接認識することである。(主観)
3) <自証分>とは、<見分>を自覚する働きの一面である。<見分>を対象としてみている自分である。(自我)
4) <証自証分>とは、<自証分>を自覚する一面である。(本来の自分)
5) 例:「花を見る」…①花=相分、②花を見ている自分=見分、③花を見ている自分を自覚している自分=自証分、④自覚している自分をさらに自覚する自分=証自証分
6) 例:「店」…①商品の値段=相分、②店員=見分、③店長=自証分、④社長=証自証分(本来の自分)
iii. 自分が自分と対話し、自分が自分を自覚し、さとるという構造がある。
iv. 「成唯識論」では、認識は<四分>で完結するという。なぜなら、<自証分>と<証自証分>は互いに自覚しあうからである。(弁証法的内観法)
v. <相分>と<自証分>とのつながり
1) 人とものとはつながっている。
2) <相分>は、<自証分>が<相分>という形になって現れたものである。
3) <相分>は、外に実在するのではなく、自分の<こころ>の投影である。
4) 自分の作り上げた<相分>に縛られることを<相縛>という。
5) 相分は<影像〔ようぞう〕相分>と<本質〔ほんぜつ〕相分>がある。
6) 自分の<こころ>のありようで、<相分>は美しくも清くも豊かにもなる。

煩悩(捨てるべき心所)

i. 煩悩は、唯識では<根本煩悩>と<随煩悩>に分けられる。
ii. <六根本煩悩>は、1貪、2瞋、3癡、4慢、5疑、6悪見であるが、悪見をさらに5つに分けて<十根本煩悩>という時もある。
iii. <六根本煩悩>とは
1) <貪〔どん〕><瞋〔とん〕><癡〔ち〕>
(a) 三不善根とか三毒といわれ、すべての煩悩の源となる。
(b) <貪>は、自分と自分の境遇に執着すること。
(c) <瞋>は、自分の気に入らぬものに腹を立てること。
(d) <癡>は、物の道理のわからぬ愚かさのこと。
(e) 自分も自分の境遇も、様々な条件、出会い、関わりなどによって存在しているに過ぎない。<空>であり<無常><無我>である。
(f) <癡>は、存在の真相を見えなくし、<無常><無我>に対して不変的実体の虚像を描いてしまう。
(g) <無常><無我>の真相が分からないから、<貪>がおきる。
(h) 自分の真相が分からず、自分でない自分に執着しているから、<瞋>がおきる。
2) <慢〔まん〕>
(a) 高慢な思い。思いあがって他を見下す心作用のこと。
(b) <慢>の詳しい心所は、第七末那識の<七慢>参照。
3) <疑〔ぎ〕>
(a) 真理それ自体を疑い、ためらうこと。
4) <悪見〔あっけん〕>
(a) 在るものの真相を見ず、自分の願望や主観で、自分の気に入るように見ること。
(b) 無常だ無我だと、否定的一面だけを見ること。
(c) ⇔<善見><正見>(在るものをそのまま見る)
(d) 「顚倒推度てんどうすいたく」とは、さかさまにものを考えることで、善見(正しい見方)と悪見(さかさまな見方)とを対照的に見ている。
iv. <十根本煩悩>とは
1) <六根本煩悩>の<悪見>を、さらに1薩迦耶見、2辺見、3邪見、4見取見、5戒禁取見の5つの顚倒見に細分したもの。
2) <薩迦耶見〔さつがやけん〕>
(a) 自己の真相(無・無我の自己)が分からず、自分のことにこだわっている自己中心的なこころのこと。
(b) 不愉快な思いの根元は、たいていこの自我にこだわる心にある。
(c) <癡>と<薩迦耶見>は表裏一体の関係にある。
3) <辺見〔へんけん〕>
(a) 一辺に固執する偏った見方のこと
(b) 原初的意味は、死後、命は存続するか断滅するかの、一方のみを絶対とするものであった。
4) <邪見〔じゃけん〕>
(a) 因・縁・果の法則、存在の真相を否定すること。
5) <見取見〔けんじゅけん〕>
(a) 存在の真相を知らないのに、自分の見方や考え方を絶対視すること。
6) <戒禁取見〔かいこんじゅけん〕>
(a) 苦行、行動への執着のこと。
v. 根本煩悩は、<分別起>と<倶生起>に分けられる。
1) <分別起〔ぶんべつき〕>の煩悩
(a) 成長過程の中で習得する後天的な煩悩のこと。
(b) 間違った思い込みの性質が強いため、それに気づけば消える。
2) <倶生起〔くしょうき〕>
(a) 本能的に持っている先天的な煩悩のこと。
3) 十根本煩悩との関係
(a) <分別起>のみ…疑、邪見、見取見、戒禁取見
(b) <分別起><倶生起>両方…貪、瞋、癡、慢、薩迦耶見、辺見

i. <善>とは、私たちがどのように生きればよいのかを、心作用の面から答えようとする心所のこと。
ii. <善>の心所は、十一に分析される(信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、勤、軽安、不放逸、行捨、不害)。
iii. 唯識での<善>は、「私という個の存在をたすけ、私を幸せにしてくれるもの」ということ。
iv. <信〔しん〕>とは
1) 澄み切った清き<こころ>のこと。
2) 認識という知的要素を含むもの。
3) <信>=<知(認識)>は、インドの代表的な<信>の定義。
4) 知・情・意の全体を包み込んだ、全人格的な清浄である。
5) 真の<信>とは、「仏(如来)と我と一体」「信じる主体と信じられる対象とが一体」にある。
6) 自分が何か別のものを信じることではなく、自分自身の存在を信じ、引き受け、頂戴する。→仏凡一体の境地
7) 真の<信>に開眼し、その真理を深く明晰に認識することに、深い<信>がある。
8) 人間の認識は全能ではないが、認識を離れて<信>はない。つまり、「人間認識の限界」と「それを超えたもの」とが交錯し出会う一点が<信>である。
v. <慚〔ざん〕>とは
1) 内面的(自分の良心、真理、正義)な恥の自覚。
2) 『大乗荘厳経論』には「慚ある者は不退なり。退は羞恥すべきが故なり。」とある。それは、自分に恥じることを知る者は後退することはないということ。後退に勝る恥はないし、後退は自己によってのみ自覚されるものだからである。
3) <こころ>の底に言い訳をする自己防衛の自我があると、そこに<慚>はない。<慚>は自己防衛本能が砕かれたところにある。
vi. <愧〔き〕>とは
1) 外界(人と人)との関係に依存した恥の自覚。(世間体など)
2) ベネディクトは『菊と刀』で、日本人の倫理の基盤は人目を気にすることで、それは内面性を伴わない程度の低い倫理だと批判している。
vii. <慚〔ざん〕>と<愧〔き〕>
1) <慚>があれば必ず<愧>もある。しかしその逆はそうとは限らない。故に、<慚>がもっとも大切である。
2) <慚><愧>は、深まって<懺悔>になる。本当にはじるには、<我>の粉砕が必要である。
viii. <無貪〔むとん〕><無瞋〔むしん〕><無癡〔むち〕>の<三善根>とは
1) <三善根〔さんぜんこん〕>は三大煩悩の反対で、<我>に基づかない。
2) <無貪>とは、本当の自分以外のものは自分のものではないと自覚し、「むさぼりのない」こと。
3) <無瞋>とは、気に入らないことがあっても腹を立てず、気まま(自我)な怒りをもたないこと。
4) <無癡>とは、ものの道理に明るい理解を持つこと。愚かでないこと。
ix. <勤〔ごん〕>とは
1) 善の真理の向かって進む<こころ>のすがたのこと。(心の精進)
x. <軽安〔きょうあん〕>とは
1) 修行に打ち込んでいるときの、軽やかな<こころ>の状態のこと。
xi. <不放逸〔ふほういつ〕>とは
1) 自分の好みや考えにとらわれず、自分を戒めながら善(本当の自分)に向かって進んでいくこと。=<精進><三善根>
xii. <行捨〔ぎょうしゃ〕>とは
1) 好き嫌いを離れた平静な境地のこと。(すべて捨てる)
2) 真の<善>は、無功用にあり自然にある。=無条件の愛
xiii. <不害〔ふがい〕>とは
1) 相手を傷つけず、相手への思いを忘れないこと(対立しないで融和すること)。=無条件の愛
2) 慈悲とは、無瞋と不害のこと。(慈=無瞋、悲=不害)
xiv. <善>のまとめ
1) <善>には、<有漏善>と<無漏善>がある。
2) <有漏><無漏>の違いは、利己性があるかどうか。
3) 凡夫の善は、わが身のためにする<有漏善>に過ぎない。
4) 仏・菩薩は、<我>を超えて<平等性智>の末那識に転じるため、<無漏善>になる。

別境

i. <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。
ii. 前五識、第六意識と共働するが、<慧>のみは、第七末那識とも共働する。
iii. 五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。
1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象
2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象
3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと
4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象
iv. <欲〔よく〕>とは
1) 自分が知りたいと思う何かを知ろうとするときの一番基底の働き。
2) 「精進」の原動力になる。
3) <別境>の欲は、第六意識でコントロール可能。
4) 貪欲⇔善法欲
5) <無欲>とは、欲に拘束されないこと。精進努力して到達すべきところ。
6) 放棄するのではなく、「捨てて捨てない、捨てないで捨てる」というのがよい。
v. <勝解〔しょうげ〕>とは  
1) 対象を明確に判断すること。
2) 認識に確実性が増すが、認識が固定化されぬよう気をつける。
vi. <念〔ねん〕>とは  
1) 過去の経験や記憶を忘れない心作用のこと。
2) 善悪いずれにも働き、善→<正念>、煩悩→<失念>と呼ぶ。
3) 深層にまで届く記憶をいう。
4) 「明記不忘」とは、はっきり記憶して忘れぬこと。
5) 「短い時間」という意味もある。=刹那
(a) 「阿弥陀如来を一心不乱に信じる刹那の心が、往生浄土の原因となる」=
<一念業成〔いちねんごうじょう〕>
(b) 「ひとつの思いの中に宇宙のすべてが含まれる」=<一念三千>
vii. <定〔じょう〕>とは
1) <こころ>の集中のこと。
2) 日常生活で見られる<生得定>と、生まれながらに持っている性質を磨き上げ練り上げていく<修得定>がある。
3) 別の呼び名として、<禅定><静慮><三昧><止><心一境性>がある。
viii. <慧〔え〕>とは
1) 是非善悪をえらび分けること。=簡択断疑〔けんじゃくだんぎ〕
2) えらび分ける段階を<慧>、はっきり決断する段階を<智>という。
3) <聞・思・修の三慧>
(a) <聞慧〔もんえ〕>とは、仏陀の教えを聞くことによって会得する簡択の力のこと。
(b) <思慧〔しえ〕>とは、思索することにより得られた簡択の力のこと。
(c) <修慧〔しゅえ〕>とは、実践によって自得した簡択力のこと。
4) 簡択の眼力が、その人の生涯を決めていく。
5) 慧眼を磨き、慧力を養うことが、<定>を練ることと一体になり、修行の肝心要となる。
ix. <別境>のまとめ
1) <別境>の五心所は、すべて善悪どちらにも働く。
2) <別境>は、善の方向へと向かって説かれている。→<欲>を「勤の依」、<定>を「智の依」としている。
3) <勤〔ごん〕>=<精進>
4) 悟りを開くと、五心所が、末那識・阿頼耶識とも共働する。
5) 悟りを開くと、末那識・阿頼耶識どちらも<善>の性質になる。

遍行

i. <こころ>(八つの識)が動くときには、いつも動いている五つの心理作用のこと。
ii. <触〔そく〕>とは 《受》
1) 「接触すること」で、すべての認識の根元に必ずあるもの。
2) 分別(<根>=身体的器官、<境>=対象、<識>=認識機能の三つを接触和合させ、もとと変わった状態になること)するときに働く心の動きのこと。
3) <根><境><識>が接触融合すると、元と違った状態として認識が成立する。これを<変異分別>という。
iii. <作意〔さい〕>とは 《受》
1) <こころ>が積極的に働き、注意を向け始めること。
2) 美しい花に目を向けたり、雨音に耳を傾けたりするような、日常的な<こころ>の立ち上がりのこと。
3) <触>との働きの前後関係は微妙である。
iv. <受〔じゅ〕>とは 《受》
1) 環境世界を受け入れるときに持つ様々な<こころ>の反応。
2) <触><作意>で外界に接触し、情報を受け取ったときに動く「感情」のこと。
3) <受>は五つに分けられ、<五受>という。
(a) ①苦受、②楽受 …感覚的、身体的反応
(b) ③憂受、④喜受 …感情的、精神的反応
(c) ⑤捨受 …身心の反応を共通に含む(空)
4) <五受>は、外界とのかかわりを、身的一面と心的一面に分けている。
v. <想〔そう〕>とは 《想》
1) ①自分の<こころ>で対象を捉え、それに対して独自の心象・イメージ映像を作り上げること。
2) ②対象を、概念化すること。
3) 第六意識(感情・知性・意識)とともに働く。
4) 言葉とは「ある名」であり、それ以上のものではない。
vi. <思〔し〕>とは 《行》
1) 行動の意思決定。原動力。
2) <思>の三分析とは
(a) ①<審慮思>とは、物事をいろいろ考えること。
(b) ②<決定思>とは、それをはっきり決める決断。
(c) ③<動発思>とは、それを行動に移す力のこと。
3) <動発思>で起こされた行動のことを<業〔ごう〕>という。
4) <業>の三業とは
(a) ①<身業>とは、自分の体で行う行為のこと。
(b) ②<語業>とは、しゃべる行為のこと、言葉。
(c) ③<意業>とは、<こころ>の中で思うだけのこと。
5) <身・語・意の三業>の根源は、すべて<思>(思考)である。
6) 如来との出会いは、般若の智慧による。
7) 智慧とは、<こころ>がもっとも明瞭に働いていること。
8) <こころ>が働くところに<思>の働きもある。
9) 自分の存在の根源は、如来により賜ったもの。
10) 己の<思>は如来の<思>である。
11) 如来より授かった生命を最高に生きねばならぬ。
vii. <遍行>のまとめ
1) 私たちの認識は、受動的ではなく内側からの積極的な働きかけにより成立する。
2) <受>は感情的な一面、<想>は知的領域、<思>は意思・意欲が動いている。
3) <遍行>の心所は、阿頼耶識とも共働する。
(a) 過去の<業>による経験や環境世界を対照的に捉え、働きかけるから。

心所有法(六位五十一の心所)

a. 唯識は<こころ>を<心王>と<心所有法しんじょうほう>の二つに分ける。
b. <心王>は「心の主体」の面、<心所有法>は「こころの働き」「心理作用」の面である。
c. <心所有法>とは
i. <こころ>の探求といえる。
ii. 人間の<こころ>の実態を細かに分析する心理分析でもある。
iii. 「心に所有されるもの」「心に属するもの」という意味。
iv. <心王>と和合して離れないもの=<相応法>
d. <十二縁起>とは
i. 瞑想によって観ぜられた真理のこと。
ii. 生老死の苦悩の根源を掘り下げていき、十二の段階(老死・生・有・取・愛・受・触・六処・名色・識・行・無明)を経て、最後に<無明>に到達された教説である。
iii. 仏陀の教説は、<無明(=心所)>の把握から始まった。
e. 多種多様な<心所>の説
i. 仏陀の滅後、<心所>の分類分析も精細になった。
ii. 唯識は、<六位四十六の心所>をベースに、<六位五十一の心所>を論じた。
f. <六位五十一の心所>とは
i. <遍行〔へんぎょう〕>=触・作意・受・想・思
1) <こころ>と一緒に、いつでもどの識とも働く心作用で、五つある。
ii. <別境〔べつきょう〕>=欲・勝解・念・定・慧
1) 別々に働く。
2) 前五識・第六意識とのみ共働する。
3) ただし、えらび分ける<慧>だけは、末那識と共働する。
iii. <善>=信・慚・愧・無貪・無 ・無癡・精進・軽安・不放逸・行捨・不害
1) 普段から心がけるべき方向。
2) <無明>に対応する善き慧(自己と自我を分けて考える)の働きを独立させた<無癡>が加えられている。
iv. <煩悩>=貪・ ・癡・慢・疑・悪見
1) かき乱し、悩ませる働き。
v. <随煩悩>= ・恨・覆・悩・嫉・ ・ ・ ・害・憍・無慚・無愧・  ・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
1) <煩悩>が根元となってさらにはっきりした形で現われたもの。
2) 基本的に<煩悩>と同じ動き。
vi. <不定>=悔・眠・尋・伺
1) 善にも悪にも働く<心所>。
g. 自身を知れ
i. 唯識は、「自心を知る」ことである。
ii. ただ知っているだけでなく、自分自身の内にある<煩悩>そのものを取り除く志気が無ければいけない。

唯識の八つのこころまとめ

1) 唯識は、人間を<八識>として分析し把握する。
2) <能変>は、深層から表層への方向へ流れる段階で使われるが、人間の内面が能動的に認識の内容を変えていくことをあらわしている。
(a) 阿頼耶識によってその人の世界が作り変えられる。
(b) 末那識によって自我中心的に変えられる。
(c) 第六意識・前五識によってものの見方、考え方、見え方、聞こえ方、つまり外界をも変えられる。
3) 八識の自己を、己のうちに自覚すること。
4) 自己認識の軸は、第六意識。

第四節 前五識

(1) 人間のこころの最前線
(a) <前五識>とは、眼・耳・鼻・舌・身のことで、感覚作用である。
2) 前五識の対象
(a) 五識にはそれぞれ対象領域があり、特に<耳識>の対象である<声境>は、以下に分類される。
(i) 第一レベル…<有執受>=生物、<無執受>=無生物
(ii) 第二レベル…<有情名>=意味のある言葉、<非有情名>=意味の無い言葉
(iii) 第三レベル…<可意>=快い、<不可意>=不快
(b) <声境>は上の第一~第三レベルの組み合わせから成るが、最終的に可意・不可意という主観的な受け取り方となる。
(c) 色はほとんど無情だが、音は有情のものが多い。
(d) 視覚よりも聴覚のほうが、情感に訴えることが強い。
(e) 外のものを受け取る感覚作用は、受身的だけではない。
3) 前五識の順序
(a) 五識の順序は、①<遠〔おん〕>②<速〔そく〕>③<明〔みょう〕>④所依の根の上下の違い がある。
(i) ①<遠>とは、遠くの対象を知ることのできる五識の順序。眼→身になればなるほど対象が狭まってくる。眼・耳の二識を<離中知>といい、鼻・舌・身の三識を<合中知>という。
(ii) ②<速>とは、認識の速さをいう。これも、<遠>同様に眼→身の順序で遅くなっていく。
(iii) ③<明>とは、明瞭度のことをいう。これも、<遠>同様に眼→身の順序で遅くなっていく。
(iv) <所依の根の上下の違い>とは、身体の器官での、眼→身の位置のことである。
(b) <五欲>とは、色・声・香・味・触の五境に執着し、それに血眼になってしまうこと。
(c) P186五欲について 「釈氏要覧」の一節
4) ものを知る入り口と出口
(a) 知性とは、感性の中から意識付けされたものである。
(b) 感性によって手に入れられたもののみが、知性を形成する(入り口)。
(c) 意識が前五識を支配し、対象を選びわけ、能動的に率直に表に表す(出口)。
(d) <前五識>は、入り口であり出口である。
(e) 感覚は変わるものではないが、感性は第六意識によって左右される。
5) 誤魔化しの通用しない前五識
(a) <前五識>が働くときは、その人の全人格が同時に働き、支えている。
(b) <前五識>と<阿頼耶識>は共通点がある。
(i) <無覆無記>である。
(ii) 対象の捉え方が直感的である。
(iii) <器界>…ものの世界を対象とする。
(c) 表層の自己(前五識)と深層の自己(阿頼耶識)が直結している。
(d) 「露堂々〔ろどうどう〕」…隠そうとしても、何事も堂々と現れ出ている。という意味。
(e) 表層はそのまま深層を現している。深層の赤裸々な姿が、表層の自分である。
(f) 最も表層の<前五識>が、最も深層の<阿頼耶識>、深層の我執・我欲の<末那識>、知・情・意の<第六意識>などの総体的あらわれである。
6) <識>から<智>への転換
(a) 凡夫のこころが智慧に開けることを、<転識得智〔てんじきとくち〕>という。
(b) 「真理がわかる」ということは、<無常><無我>のことわりがわかるということで、<第六意識><末那識>が智慧に開けることである。
(c) 根源的に自分が変わることを、<仏果位>という。
(d) 最終的に<阿頼耶識>が転識得智されることで、<前五識>の認識する世界が変わる。
(e) <前五識>は、露骨に自分が表れる領域。

自己改造の力となる能力

1) 第六意識の性質
(a) 私たちが認識するあらゆる対象を縁ずる<広縁の意識>である。
(b) 善・悪・無記のいずれにも働く。
(c) ものの真相を観る。
(d) 阿頼耶識と末那識という<こころ>を所絵(依り所)とし、そこを基盤として働いている。
2) 第六意識をより深くせよ
(a) ものを観る主体<観の体>は、内観のことである。
(b) <聞〔もん〕・思〔し〕・修〔しゅ〕の三慧>とは、聞、思、修によって得られた智慧のこと。
(i) <聞>は、仏法を聞くこと。
(ii) <思>は、聞いたことを自分にふり当てて省察すること。
(iii) <修>は、実行すること。
(c) 三慧によって、より深く意識を練ることができる。
3) 人生逃げ腰であってはならない
(a) 第六意識は、対象を造り変えたり、外から入る情報を跳ね返したりする働きがある。
(b) 自分自身を内観し、深く反省するのも意識で行う。
(c) 内観で不完全な自分を自覚することで、造り変えることができる。
(d) 自分を<所観>(客体視)し、再創造することで、<能観>(主体)も変化してくる。これが第六意識の自己改造である。
(e) 第六意識が自分を変えようとしない限り、変わらない。
(f) 第六意識は醜聞をうみ、妄想を描かせ、文化を創造し、環境をも克服していく。
(g) 五倶の意識、不倶の意識ともに練磨していくことが大切。
(h) 第六意識の修行が、<我>を増長するものではいけない。