我愛(があい)

自分だけを愛する、すなわちナルシストです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、自分の今見える部分だけを愛して、他の見える部分も、自分の深くにある自分も受け入れることをしません。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

 

我慢(がまん)

自分の存在に固執するために、相手を非難し侮ることです。

自分以外のものを対象として比べ、自分自身を確かめようとするものです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿を見ることをせず、他と比べて自分を確認しようとし、真の自分を知らないことになります。
このように、「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味しています。
そのような状態はいうなれば、我を張っている状態です。例えば痛くても、それをぐっとこらえて外に表さないことは、不正直で有り、外に対して痛くないという優越を偽って、我を張ります。
そのように、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えます。
それで最近は、堪え忍ぶことを我慢といわれるようになったものでありますが、このような堪え忍ぶことは我慢という煩悩です。
痛みに耐えることと、痛みを我慢することは違うということです。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我見(がけん)

素晴らしい自分を、素晴らしくないと思い執着することです。

積極的に自分を知ろうとしない心です。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿に囚われて、真の自分を知らないことになります。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我癡は消極的であり、我見は積極的に自分を、今知っている自分として正当化したり、又は不正化したりするものです。

 

我癡(がち)

素晴らしい自分の本当の姿を知らないということです。

それも消極的に知ろうとしないことになります。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の枠から外れることを恐れています。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。