我愛(があい)

自分だけを愛する、すなわちナルシストです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、自分の今見える部分だけを愛して、他の見える部分も、自分の深くにある自分も受け入れることをしません。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

 

我慢(がまん)

自分の存在に固執するために、相手を非難し侮ることです。

自分以外のものを対象として比べ、自分自身を確かめようとするものです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿を見ることをせず、他と比べて自分を確認しようとし、真の自分を知らないことになります。
このように、「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味しています。
そのような状態はいうなれば、我を張っている状態です。例えば痛くても、それをぐっとこらえて外に表さないことは、不正直で有り、外に対して痛くないという優越を偽って、我を張ります。
そのように、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えます。
それで最近は、堪え忍ぶことを我慢といわれるようになったものでありますが、このような堪え忍ぶことは我慢という煩悩です。
痛みに耐えることと、痛みを我慢することは違うということです。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我見(がけん)

素晴らしい自分を、素晴らしくないと思い執着することです。

積極的に自分を知ろうとしない心です。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿に囚われて、真の自分を知らないことになります。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我癡は消極的であり、我見は積極的に自分を、今知っている自分として正当化したり、又は不正化したりするものです。

 

末那識 我執のこころ

1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。

2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。

末那識の要点

1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。

 

我癡(がち)

素晴らしい自分の本当の姿を知らないということです。

それも消極的に知ろうとしないことになります。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の枠から外れることを恐れています。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

 

五位の修行 第三位 通達位〔つうだつい〕

i. <通達位>とは、唯識の真理が本当に証り、対象化が崩壊し、自分自身が<空>の真実になる段階である。→自分にかえること。
ii. 自分が自分を超え、自分でなくなる。自分でなくなりながら、しかも自分となる。
iii. <三界唯心><万法唯識>は、特に認識面にポットを当てた空の境説である。
iv. 自分に対して一番愚なのは、自分が見えず、自分を誇大視してそれを実体化して固執してしまう<末那識>である。
v. <真如>…そのまま、ありのまま、という意味を持つ→本当の自分
vi. 対象化しないで親証する働きを<根本無分別智>という。
vii. <無分別智>とは、真理を親証(自分の空なる真相が証る)することであり、見えなかった真実が見えてくる智慧の働きである。
viii. <無分別智>は五相を離れている。
1) 無作意を離れている。
(a) 修行によって獲得される物であるということ。
2) 尋有伺以上の境地を離れている
(a) 無尋唯伺地以上
3) 想受の滅した寂静を離れている。
4) 物質的性質を離れている。
5) 真実を計度する種々の相を離れている。
ix. 八識の中で<通達位>で変わるのは、<第六意識>と<第七末那識>である。
1) <第六意識>が<妙観察智〔みょうがんざつち〕>に、<第七末那識>が<平等性智〔びょうどうしょうち〕>になる。
2) <第六意識>が透徹してくると、<第七末那識>が真理を観、万物を平等に観る智慧が開けてくる。
x. <通達位>は、<見道><極喜地><初歓喜地>ともいう。
xi. <通達位>は、<資糧位><加行位>とは根本的に次元が違う。
1) <資糧位><加行位>は、自我中心的、対象的認識。
2) <通達位>は、<空なる自己>世間→出世間、有漏→無漏、凡夫→聖者への段階。
xii. <通達位>には、<根本智〔こんぽんち〕>と<後得智〔ごとくち〕>がある。
1) <根本智>は、真如と一体になる智慧である。
2) <後得智>は、現実を認識し自覚することである。
3) どちらも<無分別智>の二面である。

偏依円の三性

i. <三性>は、<依多起性><遍計所執性><円成実性>のことをいう。
ii. <偏依円の三性>は、<三性>の頭文字をとって名づけられており、唯識教義の重要なひとつである。
iii. <依多起性〔えたきしょう〕>とは
1) 「他に依って起こる性」という意味である。
2) 存在の面から捉えると、私たちは様々な諸条件によって形成されており、空しく、はかないものであるということ。
「諸法無我」…私たちが健康であるのも、私が私であるのも、様々な条件の相互のかかわりのうえにあるに過ぎない。
3) 認識の面から捉えると、私たちは自分の言葉や観念イメージ等を投影して対象を見るということ。条件の変化によって変わる。(例:幼児が書いた父母の似顔絵は、鼻の穴が強調されている。これは、いつも親を下から見上げているからである。)
4) <名言>の持つ役割
(a) 頭の中にある観念が認識成立の重要な要因になっている。その観念を<名言〔みょうごん〕>という。
(b) <名言>も、主観の投影と同じである。
(c) 言葉(名言)には、認識が制約され固定化され、思考、思索も拘束するといマイナス面もある。
(d) <名言>が先行すると、言葉が独立性を帯びて、柔軟で自由な認識が抑えられてしまう。
(e) 世界中の戦争で必ず、「正義の戦い」と主張し、その名の下に勝敗を裁いてきた。これこそ<名言>の恐ろしさである。
iv. <遍計所執性〔へんげしょしゅうしょう〕>とは
1) 「遍〔あまね〕き計〔はから〕いに執着される性〔もの〕」という意味である。
2) 感覚の対象も、思考の対象も、無条件に信じていること。
3) いろいろな条件の組み合わせである存在や認識の実態を、固定化し実体化する働きのこと。
4) 対象を<法>で表わし、<法>を無条件に是認することを<法執〔ほっしゅう〕>という。(相分を実在と信じてしまうこと)
5) 自分で作り上げたもの(相分)に拘束されてしまうことを、<相縛>という。
6) 自分を中心とした計らいが、私たちの思考や認識に浸透している<末那識>が働くから、<遍計所執性>が出現する。
7) <遍計所執性>は、自己自身の実態の省察を困難にする。
8) <遍計所執性>は、私たちが勝手に描いた虚像の世界であり、それを<体性都無〔たいしょうとむ〕とか<情有理無〔じょううりむ〕とかいう。
v. <円成実性〔えんじょうじっしょう〕とは
1) 「円」は周遍の義といわれ、普遍性を表わし、「成」は成就の義で、常住を表わし、「実」はその真実性を表わす。
2) 普遍的で永遠に真実なものという意味。<真如><無為法>
3) <遍計所執性>が迷いの人間の実態ならば、<円成実性>は悟りの自己である。
vi. <三性>相互の関係
1) <依多起性>の示す心理は、どこにも固定的絶対的な物はないというものだ。しかし人間は、その存在や認識の空無性に耐えられないので、意識の中に作り上げられた物に依存しようとするのである。
2) <遍計所執性>は、真実の信念が持つ強烈な頑固さと柔軟な精神さえも、停滞化し、凝固化し、固定化してしまう。
3) <依多起性>と<遍計所執性>は、共に空無である。<円成実性>は、その存在と認識の空無性の真理である。
4) <三性>の相互の関係は、一体(不離・非異)でもなく別体(不即・非一)でもない。(=不即不離・非異非一)
5) 物事の断定は、その断定する人間の判断力に依存しており、その人の主観である。
6) 「智慧」の「智」は決断、「慧」は簡択(えらびわける)ことである。
7) 仏教によっては、自己が本来的に仏であることを強調するあまり、自分の相対有限性を忘失してしまうものがあるが、人間はあくまで人間であり超人ではない。
8) 「<遍計所執性>=<依多起性>」の自分と「<円成実性>=<依多起性>」の自分は全く異質の自分である。
9) 「眼横鼻直〔がんのうびちょく〕」=道元禅師が中国での四年間の修行で得たこと…眼は横に、鼻は縦にというありのままの自分が、ありのままに分かったことを表した言葉。
10) 自分の都合の良いように合わせて見たものが<遍計所執性>の自己であり、その真相に気がつくのが<円成実性>の自己である。
11) 「<遍計所執性>=<依多起性>」から「<円成実性>=<依多起性>」の自己になったとき、眼横鼻直の真理の分かる真実の自己になる。
12) 今ここに生きている現実にこそ、人生の奥義がある。
13) 虚妄なる分別(遍計所執性)の中に空性(円成実性)があり、空性の中に虚妄なる分別がある。『中辺分別論』より
14) 眼横鼻直のありのままの自己の中に、「仏法」=真理がある。
15) <円成実性>=永遠の真理を証見する(信じる、理解する、自覚する)ことで初めて<依多起性>が見えてくる。
16) 自分を反省し、自分への自覚を深めるという道でしか、自分を超える方法はない。
17) 仏を呼ぶ凡夫は、すでに仏に出会っている。=行仏性

煩悩(捨てるべき心所)

i. 煩悩は、唯識では<根本煩悩>と<随煩悩>に分けられる。
ii. <六根本煩悩>は、1貪、2瞋、3癡、4慢、5疑、6悪見であるが、悪見をさらに5つに分けて<十根本煩悩>という時もある。
iii. <六根本煩悩>とは
1) <貪〔どん〕><瞋〔とん〕><癡〔ち〕>
(a) 三不善根とか三毒といわれ、すべての煩悩の源となる。
(b) <貪>は、自分と自分の境遇に執着すること。
(c) <瞋>は、自分の気に入らぬものに腹を立てること。
(d) <癡>は、物の道理のわからぬ愚かさのこと。
(e) 自分も自分の境遇も、様々な条件、出会い、関わりなどによって存在しているに過ぎない。<空>であり<無常><無我>である。
(f) <癡>は、存在の真相を見えなくし、<無常><無我>に対して不変的実体の虚像を描いてしまう。
(g) <無常><無我>の真相が分からないから、<貪>がおきる。
(h) 自分の真相が分からず、自分でない自分に執着しているから、<瞋>がおきる。
2) <慢〔まん〕>
(a) 高慢な思い。思いあがって他を見下す心作用のこと。
(b) <慢>の詳しい心所は、第七末那識の<七慢>参照。
3) <疑〔ぎ〕>
(a) 真理それ自体を疑い、ためらうこと。
4) <悪見〔あっけん〕>
(a) 在るものの真相を見ず、自分の願望や主観で、自分の気に入るように見ること。
(b) 無常だ無我だと、否定的一面だけを見ること。
(c) ⇔<善見><正見>(在るものをそのまま見る)
(d) 「顚倒推度てんどうすいたく」とは、さかさまにものを考えることで、善見(正しい見方)と悪見(さかさまな見方)とを対照的に見ている。
iv. <十根本煩悩>とは
1) <六根本煩悩>の<悪見>を、さらに1薩迦耶見、2辺見、3邪見、4見取見、5戒禁取見の5つの顚倒見に細分したもの。
2) <薩迦耶見〔さつがやけん〕>
(a) 自己の真相(無・無我の自己)が分からず、自分のことにこだわっている自己中心的なこころのこと。
(b) 不愉快な思いの根元は、たいていこの自我にこだわる心にある。
(c) <癡>と<薩迦耶見>は表裏一体の関係にある。
3) <辺見〔へんけん〕>
(a) 一辺に固執する偏った見方のこと
(b) 原初的意味は、死後、命は存続するか断滅するかの、一方のみを絶対とするものであった。
4) <邪見〔じゃけん〕>
(a) 因・縁・果の法則、存在の真相を否定すること。
5) <見取見〔けんじゅけん〕>
(a) 存在の真相を知らないのに、自分の見方や考え方を絶対視すること。
6) <戒禁取見〔かいこんじゅけん〕>
(a) 苦行、行動への執着のこと。
v. 根本煩悩は、<分別起>と<倶生起>に分けられる。
1) <分別起〔ぶんべつき〕>の煩悩
(a) 成長過程の中で習得する後天的な煩悩のこと。
(b) 間違った思い込みの性質が強いため、それに気づけば消える。
2) <倶生起〔くしょうき〕>
(a) 本能的に持っている先天的な煩悩のこと。
3) 十根本煩悩との関係
(a) <分別起>のみ…疑、邪見、見取見、戒禁取見
(b) <分別起><倶生起>両方…貪、瞋、癡、慢、薩迦耶見、辺見

i. <善>とは、私たちがどのように生きればよいのかを、心作用の面から答えようとする心所のこと。
ii. <善>の心所は、十一に分析される(信、慚、愧、無貪、無瞋、無癡、勤、軽安、不放逸、行捨、不害)。
iii. 唯識での<善>は、「私という個の存在をたすけ、私を幸せにしてくれるもの」ということ。
iv. <信〔しん〕>とは
1) 澄み切った清き<こころ>のこと。
2) 認識という知的要素を含むもの。
3) <信>=<知(認識)>は、インドの代表的な<信>の定義。
4) 知・情・意の全体を包み込んだ、全人格的な清浄である。
5) 真の<信>とは、「仏(如来)と我と一体」「信じる主体と信じられる対象とが一体」にある。
6) 自分が何か別のものを信じることではなく、自分自身の存在を信じ、引き受け、頂戴する。→仏凡一体の境地
7) 真の<信>に開眼し、その真理を深く明晰に認識することに、深い<信>がある。
8) 人間の認識は全能ではないが、認識を離れて<信>はない。つまり、「人間認識の限界」と「それを超えたもの」とが交錯し出会う一点が<信>である。
v. <慚〔ざん〕>とは
1) 内面的(自分の良心、真理、正義)な恥の自覚。
2) 『大乗荘厳経論』には「慚ある者は不退なり。退は羞恥すべきが故なり。」とある。それは、自分に恥じることを知る者は後退することはないということ。後退に勝る恥はないし、後退は自己によってのみ自覚されるものだからである。
3) <こころ>の底に言い訳をする自己防衛の自我があると、そこに<慚>はない。<慚>は自己防衛本能が砕かれたところにある。
vi. <愧〔き〕>とは
1) 外界(人と人)との関係に依存した恥の自覚。(世間体など)
2) ベネディクトは『菊と刀』で、日本人の倫理の基盤は人目を気にすることで、それは内面性を伴わない程度の低い倫理だと批判している。
vii. <慚〔ざん〕>と<愧〔き〕>
1) <慚>があれば必ず<愧>もある。しかしその逆はそうとは限らない。故に、<慚>がもっとも大切である。
2) <慚><愧>は、深まって<懺悔>になる。本当にはじるには、<我>の粉砕が必要である。
viii. <無貪〔むとん〕><無瞋〔むしん〕><無癡〔むち〕>の<三善根>とは
1) <三善根〔さんぜんこん〕>は三大煩悩の反対で、<我>に基づかない。
2) <無貪>とは、本当の自分以外のものは自分のものではないと自覚し、「むさぼりのない」こと。
3) <無瞋>とは、気に入らないことがあっても腹を立てず、気まま(自我)な怒りをもたないこと。
4) <無癡>とは、ものの道理に明るい理解を持つこと。愚かでないこと。
ix. <勤〔ごん〕>とは
1) 善の真理の向かって進む<こころ>のすがたのこと。(心の精進)
x. <軽安〔きょうあん〕>とは
1) 修行に打ち込んでいるときの、軽やかな<こころ>の状態のこと。
xi. <不放逸〔ふほういつ〕>とは
1) 自分の好みや考えにとらわれず、自分を戒めながら善(本当の自分)に向かって進んでいくこと。=<精進><三善根>
xii. <行捨〔ぎょうしゃ〕>とは
1) 好き嫌いを離れた平静な境地のこと。(すべて捨てる)
2) 真の<善>は、無功用にあり自然にある。=無条件の愛
xiii. <不害〔ふがい〕>とは
1) 相手を傷つけず、相手への思いを忘れないこと(対立しないで融和すること)。=無条件の愛
2) 慈悲とは、無瞋と不害のこと。(慈=無瞋、悲=不害)
xiv. <善>のまとめ
1) <善>には、<有漏善>と<無漏善>がある。
2) <有漏><無漏>の違いは、利己性があるかどうか。
3) 凡夫の善は、わが身のためにする<有漏善>に過ぎない。
4) 仏・菩薩は、<我>を超えて<平等性智>の末那識に転じるため、<無漏善>になる。

別境

i. <遍行>と同性質と考えられていたが、徐々に区別され、<別所>の五心所(欲、勝懈、念、定、慧)に分類された。
ii. 前五識、第六意識と共働するが、<慧>のみは、第七末那識とも共働する。
iii. 五心所それぞれ対象が異なり、そのときに応じて単独で、二あるいは五全部が働く。
1) <欲>→<所楽の境>=ねがわしい対象
2) <勝解>→<決定の境>=確定的な対象
3) <念>→<曾習の境>=以前に経験したこと
4) <定><慧>→<所観の境>=深い智慧で捉えた対象
iv. <欲〔よく〕>とは
1) 自分が知りたいと思う何かを知ろうとするときの一番基底の働き。
2) 「精進」の原動力になる。
3) <別境>の欲は、第六意識でコントロール可能。
4) 貪欲⇔善法欲
5) <無欲>とは、欲に拘束されないこと。精進努力して到達すべきところ。
6) 放棄するのではなく、「捨てて捨てない、捨てないで捨てる」というのがよい。
v. <勝解〔しょうげ〕>とは  
1) 対象を明確に判断すること。
2) 認識に確実性が増すが、認識が固定化されぬよう気をつける。
vi. <念〔ねん〕>とは  
1) 過去の経験や記憶を忘れない心作用のこと。
2) 善悪いずれにも働き、善→<正念>、煩悩→<失念>と呼ぶ。
3) 深層にまで届く記憶をいう。
4) 「明記不忘」とは、はっきり記憶して忘れぬこと。
5) 「短い時間」という意味もある。=刹那
(a) 「阿弥陀如来を一心不乱に信じる刹那の心が、往生浄土の原因となる」=
<一念業成〔いちねんごうじょう〕>
(b) 「ひとつの思いの中に宇宙のすべてが含まれる」=<一念三千>
vii. <定〔じょう〕>とは
1) <こころ>の集中のこと。
2) 日常生活で見られる<生得定>と、生まれながらに持っている性質を磨き上げ練り上げていく<修得定>がある。
3) 別の呼び名として、<禅定><静慮><三昧><止><心一境性>がある。
viii. <慧〔え〕>とは
1) 是非善悪をえらび分けること。=簡択断疑〔けんじゃくだんぎ〕
2) えらび分ける段階を<慧>、はっきり決断する段階を<智>という。
3) <聞・思・修の三慧>
(a) <聞慧〔もんえ〕>とは、仏陀の教えを聞くことによって会得する簡択の力のこと。
(b) <思慧〔しえ〕>とは、思索することにより得られた簡択の力のこと。
(c) <修慧〔しゅえ〕>とは、実践によって自得した簡択力のこと。
4) 簡択の眼力が、その人の生涯を決めていく。
5) 慧眼を磨き、慧力を養うことが、<定>を練ることと一体になり、修行の肝心要となる。
ix. <別境>のまとめ
1) <別境>の五心所は、すべて善悪どちらにも働く。
2) <別境>は、善の方向へと向かって説かれている。→<欲>を「勤の依」、<定>を「智の依」としている。
3) <勤〔ごん〕>=<精進>
4) 悟りを開くと、五心所が、末那識・阿頼耶識とも共働する。
5) 悟りを開くと、末那識・阿頼耶識どちらも<善>の性質になる。