唯識における自分

今座ってパソコンのキーボードをたたいている自分。
その自分を自分として自覚しているのは誰か?

その自覚する自分を更に自分として自覚する深い源にいる自分である。
それでは、その深い源にいる自分は、キーボードをたたいている自分と別人格か?

別人格であるとしたら、その深い自分はなぜ、キーボードをたたかせているのか?

なぜ、その自覚する自分は否定されたとして怒るのか?

その否定された自分を怒らしているのは誰か?

その自覚する自分を深い誰かが、何らかの理由で、自覚する自分を怒らせ、否定されたと認識させているのである。

その誰かも自分である。唯識は、それらの自覚の全体の営みの全てを自分であり命であると考える。
その自分のことを知らずにして、人はただ表層の自覚する自分だけで、深くにある魂とのつながりもなくただ生きているだけである。

スイスの精神医学者ユングは、自分の体験するもの全ては心的現象で有り、人間の心という永遠の事実の上に私の基礎を気づくために、私は私という主観的存在の最も独自にして内奥の基礎を知り、これらを認識したいからと言って、精神医学の道へ進んだことは有名で、ユングの精神医学への道は、唯識への道と全く同じであることがわかる。

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