末那識 我執のこころ

1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。
2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。

末那識の要点

1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。

人間と仏性の関係

1) <仏性>とは、仏の性質、ありは仏への可能性である。
2) 仏性とは、無条件の愛である。
3) <仏性>の中身は、「永遠性」と「清浄性」の2面で捉えている。
4) 大乗仏教は、みんな仏への可能性を平等に持っている、と捉えている。
5) 仏性の無い人間を、無性有情〔むしょううじょう〕という。
6) 唯識では、<仏性>を①理仏性と②行仏性に分ける。
7) 理仏性とは
(a) 永遠、清浄の真理
(b) 人間の作為を離れた永遠不変の真理。<真如>、<無為法>ともいう。
8) 理仏性と私たちの関係①
(a) 現実の私たちの存在は無常であり、<有為法~ういほう~>という。
(b) 真理(無為法)を<性>、現実(有為法)を<相>と呼び、全く次元が異なるものである。
9) 理仏性と私たちの関係②
(a) 諸行無常、諸法無我の真理同様に、真理そのものである理仏性と私たちは、一体不二である。
(b) 理仏性は、もともと人間に備わっている。
10) 永遠の真理と人間の関係を、2面で捉えることを<非一非異>という。
(a) <非一>は、現実の存在≠真理ということ。
(b) <非異>は、真理は現実の中にあるということ。しかし、一体ではない。
11) 行仏性とは
(a) 人の<こころ>にある清らかな一面のこと。(仏になりたいと求める心)
(b) 人の意志、意識の違いに着眼しており、有為法である。
(c) 行仏性は、<無漏種子~むろしゅうじ~>と呼ばれることがおおい。
(i) 無漏とは、煩悩がないこと。
(ii) 無漏種子とは、阿頼耶識に蓄えられた清らかな力のこと。
(d) 阿頼耶識の中の無漏種子が引き出された人は、行仏性を持っている。
(e) 煩悩などに隠れて無漏種子が出ていない人は、<無性有情>(俗物)であり行仏性を持たない無仏性となる。
12) 真理・真如を<無為無漏>(死んでいる自分、死んで生きる)、仏道を志す清らかな生き方を<有為無漏>、煩悩のとりこになっている凡夫を<有為有漏>という。
13) 唯識がなぜ仏性の無い人間がいるというのか?
(a) 理仏性は誰しも持っているが、行仏性はその人の意識によって隠れてしまっているので、片方が欠けていることになるから。
14) 阿頼耶識の底に第九識がある。(すべてがつながっている純粋意識の部分)
15) 阿頼耶識をクリーンにすると、第九識が上がってくる。
16) 阿頼耶識にためた影の部分は、第九識が光にしてくれる。
17) 唯識とは、第八識をクリーンにする(問題解決する)方法である。
18) 地獄も極楽も願わず、ただ現在の自分を愛し続ける己があるのみ。

阿頼耶識は善か悪か

1) 人間の本性について、孟子は性善説を、筍子は性悪説を説いた。
2) 仏教での善悪は、我執・利己性・自己中心的などを中心にそれに添ったものを悪、それを超えたものを善と捉える。
3) 菩薩の心を清浄といい、凡夫の心を染汚〔ぜんま〕という。
4) 唯識では、善悪2分論ではなく「三性分別」としている。
5) <三性>とは、善(陽)、悪(陰)、無記(無)のことである。
6) <無記>とは、善でも悪でもない性質である。
7) <無記>はさらに<有覆〔うふく〕無記>と<無覆無記>に分類される。
8) 有覆〔うふく〕無記は、汚れのにおいのする無記(グレー)。
9) 無覆無記は、混じりけの無い純真無垢な無記。
10) 阿頼耶識は無覆無記である。
11) 一人ひとり異なった人格自体に、善悪は当てはまらない。
12) 過去と現在との関係…①異熟因→異熟果②同類因→等流果
13) ①異熟因→異熟果の関係
(a) 過去の因と現在の果とは、異なった性質である。
(b) 過去の業が善・悪であっても、現在の姿は無記である。(善因→無覆無記、悪因→無覆無記)
(c) 阿頼耶識において、この関係が成り立っている。
14) ②同類因→等流果の関係
(a) 過去の因と現在の果は、同じ性質である。
(b) (善因→善果、悪因→悪果)
(c) 種子において、この関係が成り立っている。
15) 生きていること自体は無覆無記であるが、その上に留められている種子は、善の種子は善の性質、悪の種子は悪の性質そのまま変わらない。
16) 過去に悪行を積み重ねてきた人間も、善行を積んできた人間も、現在は同じ無記である。
17) 阿頼耶識は、過去の業の総合の果体である。
18) 阿頼耶識は、過去と未来を収蔵した存在である。
19) 今現在という一点に、無限の過去と未来が圧縮されている。
20) 今この瞬間をどう生きるかが、自分の全存在であり全生涯となる。

自分の器量を生きよ

1) 人は別々の経験を蓄積した阿頼耶識によって、個としての独自の人生を生きている。
2) 他人を羨まず、さげすまず、自分の器で生命を堂々と生きよ。
3) <個>を鍛え<個>を深め<個>に生きる。
4) 自分…自我自己を含むすべて、人間存在の根源に立って自己を捉えた言葉。
5) 阿頼耶識をどう扱うかは、末那識にかかっている。

阿頼耶識の第三の性質 執著の対象 燃えるように生きている自分

1) 「成唯識論」では、八識別体説(八識は別々に独立している)と説いている。
2) 大脳生理学でも、視覚・聴覚…知性・感情など様々な働きをする脳の領域は違う場所である。
3) 薫習説、種子説とは、生きることは動いていること。動いているとは変わっていること。という変化を意味している。
4) 執著の対象とは、今の阿頼耶識で感じているところに実態的な自己があると思い込んでしまう、変わりようがない、執着しようとする性質のことである。
5) 阿頼耶識は実態的な自我ではなく、変化するもの(空)である。しかし、現在の自分には変わりない。
6) 自我…自分自身だけを認識するもの(無常)
7) 自己…すべてとつながっており、その一部であるという総合的な認識(無常ではない)
8) 自己同一性的…自己とはこれだと思い込むこと

阿頼耶識の第二の性質 種子生現行〔しゅうじしょうげんぎょう〕

1) 「種子生現行」とは、蓄えられた種子―経験が、その人の人柄、その人の環境世界となって現れることである。
2) 外界は、阿頼耶識(深層)の指示で見ているので、人によって変わる。
3) 自分の知っている感覚でしか外界を見ていないのだから、それが絶対ではない。
4) 外界の認識は、深層にある人柄、知識、教養、趣味、嗜好、無意識に身についた文化的伝統、価値観などの総体的な人格によって限定されている。
5) 万法不離識〔まんぼうふりしき〕
(a) 阿頼耶識に蓄えられたものによって、目の前のものが見えたり見えなかったりすること。
(b) 自分の<こころ>によって、外界の見え方が変わってくること。
6) 三界唯心〔さんがいゆいしん〕
(a) 自分の意思とは無関係に、阿頼耶識に蓄積しているものにより、勝手に解釈してしまうこと(=妄想)を「因縁変〔いんねんへん〕」という。(例 蒟蒻問答)
(b) 「三界唯心」とは、阿頼耶識に蓄えられた根源に基づいたその人だけの心、解釈、価値観だけで相手を判断してしまうこと。
(c) 三界とは、欲界・色界・無色界(物質矢物質的な思いから解き放たれ、受想行識の四蘊のみから成る。)で、仏以外の全世界のこと。
7) 唯識無境〔ゆいしきむきょう〕
(a) 外界は、自分が客体化されたもの、対象化された自分である。※客体化…自分を客観的に見た実態のこと。
(b) 外界と自分<こころ>は境がない。
(c) 自分の<こころ>が外界に現れる。
(d) 目に見える世界=自分のこころ
(e) 「神は人間の内面があらわになったもの」(フォイエルバッハ)
8) 目前の事象を語ることは、過去の自己をも含む今日の自己を語ることである。
9) 共通の経験は共通の種子を薫習する。共通の経験や行為を共業(ぐうごう)といい、その種子を共業の種子という。
10) その人独自の経験・行為を不共業という。(=個性)
11) 自分の認識の限界を深く自覚することと、自己が変わることへの真摯な省察が大切。
12) 全人格的な深まりのみが、ものを見る目を深める。

阿頼耶識の第一の性質 現行薫種子〔げんぎょうくんしゅうじ〕

1) 仏教では、私たちの行為を身・語(口)・意の3業と呼んで3面から捉えるが、その3業のすべてが阿頼耶識に蓄積されている。身は身体で行う行為、語は言葉の行為、意はこころの行為である。
2) 阿頼耶識には、親や先祖、民族の長い歴史の行為までも蓄えられている。
3) 蓄えられている過去の行為の残影を「種子〔しゅうじ〕」と呼ぶ。
4) 「種子」が阿頼耶識に蓄えられることを「薫習〔くんじゅう〕」という。
5) 人柄やその人の香りは、阿頼耶識に薫習された種子が根本的なよりどころとなって作りだされている。
6) 「現行薫種子」とは、身・語(口)・意の種子が阿頼耶識に薫習されることである。(→すべての行為が深層の阿頼耶識に蓄えられるということ)

阿頼耶識

i. 阿頼耶識は、インドの「アーラヤ(住居、貯蔵所)」の音写である。
過去のすべての経験と、現在と未来を作り出す力が蓄えられている。
ii. 阿頼耶識には三つの性質がある。一、過去の行為の残痕を蓄える。(現行薫種子)二、蓄えられたものによって現在や未来が変わる。(種子生現行)三、自我として実在化され、固定化されて執着の対象となる。

心王(八識三能変)表層と深層の絡み合い

i. 人間の<こころ>は、表層と深層が重層している。
ii. <こころ>は、表層から深層、深層から表層への2方向から捉える。
1) 表層→深層は、外の情報を受け入れていく受動的な一面。
2) 深層→表層は、深層が表層を支え動かしているという一面。
iii. 第一眼識~第五身識は、五感と呼ばれる感覚作用であり、一括して「前五識」と呼ばれる。
iv. 第六意識は、推理・判断・想像・洞察などの知的要素や、情緒、情操などの感情、意思意欲などすべての精神機能を含む広範囲な作用の<こころ>である。
v. 第七末那識は、潜在的な意識下の利己性、自己中心的な思い。
vi. 第八阿頼耶識は、過去を秘匿する潜在的な自己の深層。
vii. 一つのものを見たり聞いたりするときも、今日までの自分が総合的に働いている。
viii. 八識の<識>は<こころ>のこと。
ix. 使い分けは、識=了別(物事を区別している)、意=思量(いろいろに思いはかる)、心=積集(過去を集積し保持している)である。
x. 第一眼識~第六意識までを、<識>と呼ぶ。
xi. 第七末那識は、いつも利己的に思いはかるので、<意>と呼ぶ。
xii. 第八阿頼耶識は、過去を溜め込んでいるので<心>と呼ぶ。

唯識とは

i. 現実の自分を、立ち止まって凝視することから始まる。現実の自分とは、自分の根底(無)の部分を含む存在全体の働きを自覚することである。
ii. 欲望や性格を否定せず、人間すべてを受け入れて問う仏教である。
iii. 唯識は三蔵法師の説いたものである。三蔵法師は、弟子入りした慈恩大師の三事の欲を許した。
iv. 自己をどんどん新しいものに変化し、再創造させる<有>の仏教である。
g. 現実の人間存在は、不安と愛の両面を併せ持っている。自分の不安部分を見つめ受け入れてこそ、根底にある愛の部分にも気づくことができる。
h. 唯識学全体を明らかにするために、多くの議論が行われた。これは、唯識が締め付けや固定化した思考停止のない証拠である。
i. トラブルは自分の力で乗り越えなければいけない。その境遇に負けてしまうのは、自分の精神力の弱さである。
j. 赤ん坊が両足で歩くために何度も失敗を繰り返し乗り越えるように、人生とは、自分で立ち自分で歩くという気構えが根底になければならない。
k. 成唯識論とは、《こころ》である。こころを凝視し、空の自分に覚醒して、喜怒哀歓の自分を吟味する仏教。
l. 《こころ》の仕組みを理解すれば、自分を客観視ながらゆがみを軌道修正することができ、限りなく豊かな《こころ》にすることができる。
m. 《こころ》の仕組みを知ることで、新しい道を見出せる。
n. 悩み苦しむ理由がわかり、自分が何をどう苦しんでいるのかを発見すると、徐々にその苦悩から逃れることができる。
《こころ》は身近にあるものだが、そこに多少でも狂いがあったとき、真摯な毅然とした態度が必要である。
o. 《こころ》の中には、立ち上がるための力がある。自らの精神で克服していこうと努めれば、その力は強くなっていく。
p. 《こころ》も、身体同様に強く柔軟に鍛えなければならない。
q. 「すべての人の苦しみや悩みを救うことこそ、おのれの使命」 (相田みつを)