七慢

慢は、思い上がりの心。それを七つに分けたものが「七慢」

慢とは、他と比較しておごり高ぶること。
過慢とは、自分と同等の人に対し、自分の方が上だと思うこと。
慢過慢とは、自分より優れた者に対し、自分の方がもっと上だと思い誤ること。
増上慢とは、悟りの域に達していないのに、既に悟っているという自惚れの心。
我慢とは、自分に執着することから起こる慢心のこと。
卑慢とは、はるかに優れた者と比較し、自分は少ししか劣っていないと思うこと。
邪慢とは、間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張ること。

我愛(があい)

自分だけを愛する、すなわちナルシストです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、自分の今見える部分だけを愛して、他の見える部分も、自分の深くにある自分も受け入れることをしません。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

 

我慢(がまん)

自分の存在に固執するために、相手を非難し侮ることです。

自分以外のものを対象として比べ、自分自身を確かめようとするものです。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿を見ることをせず、他と比べて自分を確認しようとし、真の自分を知らないことになります。
このように、「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味しています。
そのような状態はいうなれば、我を張っている状態です。例えば痛くても、それをぐっとこらえて外に表さないことは、不正直で有り、外に対して痛くないという優越を偽って、我を張ります。
そのように、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えます。
それで最近は、堪え忍ぶことを我慢といわれるようになったものでありますが、このような堪え忍ぶことは我慢という煩悩です。
痛みに耐えることと、痛みを我慢することは違うということです。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我見(がけん)

素晴らしい自分を、素晴らしくないと思い執着することです。

積極的に自分を知ろうとしない心です。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の姿に囚われて、真の自分を知らないことになります。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

我癡は消極的であり、我見は積極的に自分を、今知っている自分として正当化したり、又は不正化したりするものです。

 

末那識 我執のこころ

1) 末那の語源は、インド語の「マナス」の音写で「思い量る」という意味である。

2) 末那識は、自分のことだけにこだわり思い量り、他を認めたがらない我執のこころ(=自我)である。
3) 末那識は、第六意識がなくなった無意識の状態(睡眠中、気を失っている)でも働いている。
4) 末那識は、個の人間として存在するための理由である。生きる力になる。
5) 第六識は善・悪・無記のいずれにも変化するが、末那識は常に<有覆無記>である。
6) 意識的に良いことをしていても、末那識の我執は常に働いている(常恒)。

末那識の要点

1) 我執は、私たちの視野や思考を偏ったものにする。
2) 我執は、潜在的に<こころ>のそこに働き続けている。
3) 我執は、真理や他の存在への暖かい自愛へと、視野広く転換することができる。

 

我癡(がち)

素晴らしい自分の本当の姿を知らないということです。

それも消極的に知ろうとしないことになります。

これも我(が)に囚われている、末那識(まなしき)という我執(がしつ)の心であり、今現在の自分の枠から外れることを恐れています。

四煩悩として、我癡、我見、我慢、我愛があります。

 

第九意識と究竟位

究竟位はどこにおいて意識されるのか?識もなく識もある世界であるのに、阿頼耶識よりも深い世界を認識することは可能なのか。
すなわち、第九意識とは完全なる涅槃すなわち、完全なる無の世界である。
その世界を認識することで、究竟位に到達する。

五位の修行 第五位 究竟位〔くきょうい〕

究極という場所である。
もう先がないと言うことは、まだまだ先があるということであり、もう過ぎたことと言えば、まだすぎていないと言うことであり、全てに有無がないところであり、現実の中に生きているも、真如の中に生きていることもなく、又現実に生きていて真如の中に生きている状態に達しているのである。
ここは、唯識において語るには、とてもさわやかで清らかな場所であるので、識もなく、識もあると言える場所である。
従って唯識という言葉も、論も存在しないし、又存在する場所であるので、唯識論で述べる事もでき、又述べることもないところである。

唯識論と唯心論が最終的に異なるところは、ここだけである。
唯心論は識(心の作用)こそがこの世界の全てであると考えている。
唯識論はこの識でさえも存在もせず、又存在しないこともないという完全無垢な世界を説いている。般若心経に通じる部分である。

修習位 迷悟衣〔めいごえ〕—全ては如来の中

真理が迷いと悟りのよりどころと考えるものである。
種子衣は人間の現実的な自己の存在を指しているのに対して、永遠の真理という理法を意味するところである。
種子は事。現実の存在であり有為法。迷悟は超越的な存在であり無為法である。
本来は双方は一つのものとして和合して、又同一でないものである。不離。非異ということである。
唯識ではこれをはっきりと二つに分けてから考える。
永遠普遍のものと現実で有限のものとの織りなしが、迷悟の拠り所となる迷悟衣である。

真如凝然

真如はじっとして動かないという意味である。

真理は現実に内在して現実の中にあり、現実と真理は全く次元は違うが、一刻も離れることはない。

もともと悟りとは真如を真にわかると言うことである。
迷いとは真如がわからないが、それを求めようとしているものである。ありのままの自分が見えないのである。
どちらも真如との関係であるので、迷悟衣という。

迷うから悟る、悟るから迷うとも言うべきである。

すなわち迷うも悟るももともと真如の上にあったからで他ならないという事を知るときが迷悟衣である。