飛び交う唯識のはかない情報

メールでその日の唯識に関する記事が、私の手元にURLを羅列し、その要約を記載して届きます。
どれを見ても、解釈がどうだとか、流派はどうだとか、どのような歴史だとか、難しい言葉を連ねて、いとも学問の高尚さを醸し出すような、自己陶酔的な感じを受けるばかりです。

唯識論は、普通に生きる人たちが、毎日の生活の中で自分は何をしているのか、何を考えているのか、またそれはなぜか?人間とは何だろう?なぜ、さっき心もなく冷たい態度をしてしまったんだろう等々、こんなところに生かされるものなのです。

それにもかかわらず、あまりにも難しい言葉に固執して、それを現実的に整合させることをしないで、ただその解釈を述べ続ける唯識学にはあきれ果てるばかりです。

一応全て読みますが、私に届く唯識に関する情報は、どれもどこかの本に書いていることを紹介しているものばかりで、すでに読み尽くしたことの人の解釈を聞いているばかりです。

大事なことは、唯識は当たり前のことしか書いていないのであるから、五位の修行にあるように,それをどのようにして普通に生きる人たちの日常生活に生かしていくことができるかを、行動学的に考えることです。

そのような情報は100くる情報の内、ほんの1ぐらいしか有りません。最近は読むことも全て斜め読みにしています。ぱっと見れば何を書いているかわかるぐらい味気ないものです。

唯識学者の話も、僧侶の話も同じです。

この素晴らしい唯識学を,実践的に、人々の自然な自己の発見に生かして行く。そして多くの人が、いつもあたりまえに楽しく生きていく姿を見て楽しむ。これが私の楽しみです。

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